P.K.G. MAGAZINE | パッケージを考える

COLUMN

日本のパッケージ記号論

2020.09.11

“日本の包みは、運ばれる品物の一時的な飾りではなくて、もはやそれ自体が品物なのである。包装紙そのものが、無料だがしかし貴重なものとして聖化されている。包みが一個の思想なのである。”

“しかし、たいていは幾重にも包まれたこの包みの完璧さそのもののために(人はなかなか包みをときおおせない)、包みが包み込んでいる内容の発見を包みはさきへ押しやる——そして包み込んでいる内容はおおむね無意味なしろものである。つまり、内容の不毛が包みの豊饒と均衡がとれていないという、そのことこそが、まさに日本の包みの特殊性なのである。”

“つまりは相手に贈る肝腎なものは、包み箱そのものであって、包み箱の内容ではない、といった感じである。”

“つまりは、包み箱は表徴の役目を果す。遮光カバーとして包み、仮面としての包み箱は、それが隠し保護しているものと、等価である。と同時に、もしも次の言いかたをその二重の意味、金銭と心理の二つの意味にとっていただけるならば、包み紙は《内容と代替可能》ということを示すものである。包み箱が包みこみ、そして包み箱が表徴するもの自体は、ひどく長い時間、《もっとあとに置かれる》ことになる、あたかも包みの機能は空間の中に保護することではなくて、時間のなかに運びこむことでもあるかのように。”

“包みの中にある内容、表徴のなかにある表徴されるもの、それを発見することは、それを棄てることなのである。蟻のようなエネルギーで日本人が運んでゆくものは、つまるところは空虚な表徴である。”

Roland Barthes (1970). L’Empire des signes
(ロラン・バルト 宗 左近(訳) (1996). 表徴の帝国 ちくま学芸書房)

ロラン・バルトはフランスの思想家、記号学者です。1966年から1968年にかけて数度来日、その経験から西洋の文化のあり方と日本の文化のあり方を、「記号(表徴)」をキーワードに論じています。西洋の文化、思想が意味を重んじるのに対して、日本には意味を隔たった「記号」をもつ文化の国として様々な例を取り上げています。

例えば、皇居について「空虚な中心」として、いかにも都市の中心でありながら誰からも見られることのない皇帝の住む御所として書き記しています。また、西洋の場末のビリヤード・マシンは打ち出した玉を機械をゆすり、進路を調整することに重きを置くことに比べ、日本のパチンコは打ち出した玉の軌跡に全てを委ねるものとして紹介されています。そのあり方は日本の芸術家の、線を一気に引くような、決して矯正のないあり方が根源的絵画の原則と同じであると論じています。

そんな文化論の一節に、冒頭で引用した日本の「包み」があります。日本の包装は、ささやかなお土産のお菓子であってもまるで宝石と同等のように豪勢である、そんな豪勢な包装のお土産を修学旅行の学生たちが容易く持ち歩いていると著者は述べています。そして何重にも包装され、まるで開封のときを遅らせるかのようです。包み箱の価値と中身の価値は等しく、また包みを開けることはその包みの「表徴」を棄てることだとも論じています。

人にものを贈るとき、誰しもパッケージを吟味したことがあるのではないでしょうか。何色かから選べるリボンを相手の好みを想像して選んだり、少し高級な箱に入れてもらったり……逆に貰う立場の際は、素敵なパッケージに期待を膨らませたり、そっと開けるときのワクワクした気持ちは誰しも味わったことがあるかと思います。全ては「贈る」という行為の演出であり、相手との気持ちや時間の共有のための手段としてパッケージが用いられています。贈る行為に込めた思いやりが、ロラン・バルトの論ずる「意味を隔たった記号としての包み」という日本独自の文化を形成してきたのではないかと思います。

現在、世界ではもちろん日本でもパッケージの環境配慮が進んでいます。プラスチックから紙への移行やラベルレスの商品の登場など、パッケージの文化はどんどん変わっていくことになりそうです。もちろん過剰な包装の見直しや、素材への意識のアップデートは進めていくべきだと考えています。パッケージのデザイナーとして、環境配慮には取り組みつつパッケージに潜む日本の文化までを無くしてしまわないよう、心に留めていきたいと思います。

P.K.G.Tokyo 白井絢奈


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